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【心に響く偉人の言葉】山本五十六の名言に学ぶ!

心に響く言葉
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こんにちはJONです。

 

組織においてリーダーであるあなた。

部下から慕われながらも、結果をたたき出せるような、強いリーダーになっていきたいものですよね。

今回は、昔、部下から厚い信頼を得て慕われていたとされる自物、山本五十六について、端的に紹介させていただきます。

その名言から、リーダーとしての成長につながるようなヒントが得られればと思います。

是非、参考にしてみてください。

 

 

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山本五十六の略歴

1884年【明治17年】新潟県古志郡長岡本町で、7人兄弟の末っ子《6男》として生まれる。

【五十六】という名は、父親が56歳の時にできた子だということでつけられる。

※母親は45歳と高齢でした。

五十六の叔父は、現役の海軍の軍人でした。

五十六は小さいころから叔父を慕っており、叔父の話からも海軍に興味を持っていました。

そういった経緯があり、自身も海軍兵学校【海軍育成学校】を目指すようになった。

海軍兵学校は、体力のみならず、学もないと入れないような学校であった。

そのため文武両道に努力を重ねていた。

五十六は、努力の甲斐があり、200人中2番の成績で海軍兵学校に合格する。

入学後も努力を怠ることなく無事卒業。

念願の海軍入隊を果たす。※兵学校では、将来の友となる堀悌吉と出会う。

卒業後、五十六は日露戦争に参加

※この戦争で左手の人差し指と中指を失う。

日露戦争が日本の勝利で終わった後も、海軍をしながら勉強に励み、1913年【大正2年】12月に、海軍大学校に入学する。

在学中の1915年【大正4年】、牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続。

 

※海軍大学校は、海軍の中でもエリートしか入ることができないと言われていた。

五十六は、海軍大学校を卒業後、アメリカへの留学を命じられる。

海外へ留学を命じられるのは、エリートの集まる海軍大学校の中でも更に優秀な人だけであった。

五十六は留学中に、アメリカの様々な先端技術を目の当たりにし圧倒される。

当時の日本では考えられないような先端技術・文明がそこにあったからである。

日本に戻った五十六は、アメリカに追いつくために、時代の先取りをし研究を開始。

一番目を付けたのが航空機であった。

当時の日本の海での戦術は、戦艦での砲撃戦がメインであった。

※【戦艦に装備された砲弾で撃ち合うといった戦術】

そういったことで、それに特化した研究・開発が繰り返されていた。

そんな中での、五十六の、空母に航空機を多数配置させ、空からの攻撃主体にしていくべきだとの発想は斬新であった。

がしかし、努力が評価され

・1935年【昭和10年】12月2日、海軍航空本部長に就任。

・1936年【昭和11年】12月1日、永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢される。

 

 

【生】1884年《明治17年》4月4日

【出身地】日本 新潟県古志郡長岡本町《現:長岡市》

【没】1943年《昭和18年》4月18日 ソロモン諸島ブーゲビル島上空で死没

【所属組織】大日本帝国海軍

【軍歴】1901年~1943年

【最高階級】元帥海軍大将

 

山本五十六の人物像

山本五十六は、太平洋戦争で活躍した海軍の軍人です。

日本海軍の最高責任者として、アメリカとの戦争に大きく関与した人であります。

 

身長160㎝・体重65Kgと比較的小柄でありました。

とはいえ、横幅が広く、はち切れそうな身体で、全身鋼鉄のような印象であったと言います。

性格はお茶目で、政治に興味を持っていたとのことです。

 

 

 

※ここからは、山本五十六を知る人の証言を紹介させていただきます。

★山本五十六の人物像についての証言抜粋紹介

【三和義勇】によれば、山本は【とっつきにくい人ではあったが、はかり知れぬ深さのある人で、2・3ヶ月もすれば、たいていの人は尊敬しなついた】とされています。

また、【任務には忠実で、自らに厳しく他人には寛大、エチケット、表現しずらい多くの要素が一体となって山本五十六の人格を形成し、太平洋戦争当時の日本海軍の中では最高の指揮官だった】と話しています。

【森田貫一中将】は、【山本に半年仕えれば、一体感を持つようになる。仮に山本が危機に晒されたら、反射的に命を捨てて守るだろう】と語っている。

【草鹿龍之介中将】は、山本について【上司・人間として立派で実情があった】【ジェスチャーが大きすぎる。戦術家よりも軍政家向きの資質だった】と語っている。

【横山一郎少将】は、【統率は申し分なく立派。ただ、作戦は落第】と山本を評価している。

【松田千秋少将】は、【情誼に厚い立派な人で、先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ】としている。しかしながら【作戦は感心できるようなものがほとんどなかった】【真珠湾攻撃はバクチが当たって上手くいったが、ミッドウェー海戦ではあの通りになってしまった】と語り、また、山本からは【連合艦隊司令官より、海軍大臣になりたい】と聞いていたという。

【三代辰吉大佐】は【今でも山本を尊敬している。だが、あれだけの人物でも、やはり生身の人間で盲目があった】と語っている。

【源田実大佐】は【真珠湾攻撃と言えば、必ず山本五十六元帥が頭に浮かぶが、山本元帥といえば、必ず真珠湾攻撃が浮かぶとは限らない。それほど山本元帥は偉大な存在であった】と語っている。

【中杉清治大佐】は【我々のような凡庸な人間が考えつかない遠くを見ていた、底の知れない人だった】と述べている。

【奥宮正武中佐】によれば、山本は酒を飲まず、ゲームごとが好きでトランプに優れ、内外問わず、老若男女を差別せずに接して、人々を温かく受け入れ、手紙や書、和歌を多く書いたという。

【吉田俊雄中佐】は【太平洋戦争は山本五十六自身の戦争であった】と表現している。

【千早正隆中佐】は【山本は公私のけじめを明確にしていた】と評価している。

【引用元:Wikipedia】

 

心に響く言葉・心を動かす言葉

山本五十六の名言抜粋

★苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。

 

★やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

 

★それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間は、随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年・3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様極力極力ご努力を願ひたい

 

人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。

 

★人は誰でも負い目を持っている。それを克服しようと進歩するものなのだ。

 

★百年兵を養うは、ただ平和を守るためである。

 

★男は天下を動かし、女はその男を動かす。

 

★陸軍との争いを避けたいから同盟を結んだというが、内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい。

 

★博打をしないような男はろくなものじゃない。

 

★実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜならば、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

 

★中才は肩書によって現れ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。

 

★ああ、われ何の面目ありて見(まみ)えむ大君に、将又(はたまた)逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし。いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を、華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ

 

まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は、山本五十六について紹介させていただきました。

山本五十六は海軍軍人でした。

山本五十六は軍人でありながらも、戦争という物をどう捉えていたのかという深い心情については、下記内容から見ても複雑な境地と戦っていたのではないかと感じます。

当時の総理大臣であった近衛文麿の【近衛日記】に、近衛に日米戦争の場合の見込みを問われた山本五十六は下記のように話しています。

それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間は、随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年・3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様極力極力ご努力を願ひたい

井上成美は、戦後この時の山本五十六の言葉について【優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、《海軍は戦争をやれません。戦えば必ず負けます》と言った方が、戦争を回避できたかもしれない】と述べている

【引用元:Wikipedia】

 

山本五十六は、自分の本意ではなかった真珠湾攻撃を機に、アメリカとの戦をせざるを得なくなった。

なぜ、戦争をしたくない人が、気づけばトップとなって戦争をせざるを得なくなってしまったのか。

本当に、悲しい歴史背景、国家権力等々のあらゆる悪の圧力が背景にあったのだと感じます。

 

 

山本五十六は、組織においての絶対的リーダでありました。

部下を引き付けるだけの包容力・人間としての深み、そして、人を大切にする精神を兼ね添えていた人物であったと感じて止まないです。

そうでなければ、下の立場の人から尊敬される存在にはななれないと思うからです。

しかも歴史上に名を刻むほどの証言の数々が、その人間としての功績を語っています。

山本五十六が生きた時代は、今の日本のような生ぬるい時代とは違い、人間の欲望・本性がさらされる戦争の中での時代でした。

そんな中で、部下や戦友から尊敬をされるような人生から、学ぶべきことはたくさんあると思います。

山本五十六は、尊敬されつつも、その戦術においては、否定的な証言も数多くあります。

そういった完璧ではないところも、とても魅力的な人物であったと感じます。

 

人間は、どこまで行っても人間以上の存在にはなれません。

山本五十六の生き様から学び、部下や後輩、下の立場の人には、特に優しく接していける人間になっていきたいものです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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