突然のように降りかかった新型コロナウィルスの拡大に、社会は先行きが見えなくなった。
不安が襲う中、人々は希望を見出そうとして必死に生きている。
私たちは、この感染症の存在をどう捉え、どう立ち向かっていけばいいのか。
歴史を振り返れば、過去にも感染症の脅威はあり、多くの歴史家や文学者、哲学者らが著作の中で取り上げてきた。
そうしたことから学び取ることも必要であると思う。
例えば、古代ギリシャの哲学者プラトンは晩年、こう述べた。
『【不当な利益をむさぼること】(自分の分け前より多くを持つこと、過度)こそ、身体の中に現れるのなら【病気】とよばれ、季節や年月の中に現れるのなら【疫病】と呼ばれる』
★つまり、むさぼる心が【病気】の原因となり、さらに【疫病】の原因になるということである。
ウィルスや細菌が感染症の原因であることは、今日において医学の常識である。
ゆえに、感染の原因をその患者個人の心の問題に帰することはできない。
ただ、人類全体として見たときには、環境破壊によって野生動物のすみかが奪われ、野生動物由来のウィルスが人間社会に進出したとする説や、地球温暖化によって氷山が解けることで、そこに眠っていたウィルスの活動が始まるとする説も専門家から出ている。
人間の欲望が環境破壊をもたらし、今日の感染症流行の遠因となっているのだとすれば、それは、人類が地球環境の保全に真剣に取り組むべきことを告げる警鐘なのかもしれない。
そもそも【パンデミック(世界的流行)】という言葉は、【全ての人に関わる】を意味する古代ギリシャ語【パンデーモス】に由来する。
これはパンデミックが、国籍や人種、性別、年齢に関係なく、誰もが感染者となる可能性を有しており、世界中のすべての人に関わる問題であることを示す。
一方、パンデミックによって感染した人や死亡者は、数字情報として表示される。
毎日更新されるこの情報に私たちは慣らされ、次第に個々の人間の死は【抽象化】されていく。
そして最初は感染したらどうしようと緊張感を持って対応していた3密【密閉・密集・密接】の回避も、時間が経つうちに【単調】と感じるようになっていく。
こうした【抽象化】【単調】といった視点は、フランスの作家アルベール・カミュの小説【ペスト】からも読み取れる。
(以下の引用は、宮崎峰雄訳『ペスト』創元社)
~カミュはつづる~
『ペストというやつは、抽象と同様、単調であった』と。
~ 舞台は、アルジェリアにある実在の都市オラン。
物語は、街中のネズミが次から次へと謎のうちに死んでいくことから始まり、やがてその死は人間に及び、日が経つにつれて死亡者も増えていく。
歴史の中で繰り返されてきたペストの襲来である。
この中で、主人公である医師リウーは1人感染症に立ち向かう。
『ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです』と語るリウー。
誠実さとは、患者の苦痛を少しでも和らげ、その寿命を永らえようとする医師の職務を果たすことであった。
自らの感染の危機を顧みず、たとえ他の人があきらめても、全力で患者の治療にあたるリウー。その姿に心動かされ、周囲の知人たちも協力し始める。
カトリックのパヌール神父は、教会で人々に、【ペストは人間が生まれながらにして背負った原罪に起因する】と説き、悔い改めて信仰に励めと奨励した。
この説教は当初、人々の苦しみを抽象化する教会の権威として、やや批判的に描かれる。
だが、そのパヌールもまた、リウーの奮闘に刺激を受け、患者への貢献を始める。
やがて物語に転機が訪れる。
それは、ある少年の死であった。
家族から離れて隔離病棟に移され、たった一人でペストと戦う少年。
その様子を描くカミュの筆致はリアリティーに満ちている。
少年が断末魔の苦しみに悶絶し、悲鳴を上げて息絶えるさまは、読者の胸を締め付けるような鮮烈な描写だ。
少年の最期をみとったリウーやパヌールらは苦悩する。
『どう見ても、この子に罪があるとは思えない』ー リウーの言葉に絶句したパヌールは、この経験によって抽象的な罪を説くことをやめ、患者の苦しみを我が苦しみとして受け止め、自らの感染も辞さずに患者への貢献を続けるのである。
カミュは、パヌールの信仰の純粋性を、【理論】から【行動】へと変容させて描いていく。
もちろん、これは現実の物語ではないが、重要な示唆を与えてくれる。
それは、より良き信仰の本質とは、他者の苦しみをリアリティーをもって受け止め、共に苦しみ、共に乗り越えようとする強さにある。
ということである。
仏の生命とは何か
仏の生命とは、苦しみの無い境涯のことではなく、他社の苦しみを自分の苦しみとして受け止められる境涯のことです。
この仏の生命のふるまいを【同苦】という言葉で表現できます。
カミュがリウーやパヌールの姿を通して示したかったのは【抽象化】【単調】を乗り越えて、同苦する生き方ではなかっただろうか。
私たちも【他人ごと】になってしまいがちなこのパンデミックを捉えなおし、感染者に同苦する生き方、そして医療従事者の尊い献身への共感を、この作品は喚起しているように思えてならない。
小説の中で、リウーは語る。【僕が惹かれるのは、人間であるということだ】
人間は、人間を離れて人間とはれない。
語り合い、触れ合う中で人間となる。
それは、同苦にあっても同じだろう。
他者の苦痛を完全に理解することはできないかもしれない。しかし、同苦しようと思うことはできる。
人間だから同苦するのではない。
同苦しようと思うから人間なのである。
人間には、いかなる苦境にあっても、高邁な心を持ち、耐え忍ぶ賢明さがある。
人間には、希望を見出し、むしろ逆境をバネとしていく強さがある。
人間には、あらゆる環境の変化に対応しうる知恵がある。
そしてなにより、周囲を思い、共に支えあって乗り越えていく思いやりがある。
そうした人間の持つ善性を信じ開花させていきたい。
人間を人間たらしめる条件は何か。
それは、自分自身の最大の価値を開発していこうとする成長の心です。
自己の欲望や感覚的喜びにとらわれている生命から、他者への奉仕を根本とする利他の生命へ転換を意味します。
その実践は、人間の中に飛び込み、自分を磨くことから始まる。
そこにはパンデミックに巣くう【単調】を打ち破る力がある。
そして、目の前の1人に寄り添い、同苦し、共に立ち上がっていく作業である。
ここには【抽象化】を乗り越える力がある。
あらゆる物事を【自分事】と捉え返し、足元から変革していく運動。
そうした連帯を広げていくことは、感染症の教訓を生かしながら、人類を分断から共生の方向へと導き、環境保全などにも取り組んでいく力となる。
~【ペスト】の最後、カミュはつづった~
『天災のさなかで教えられること、すなわち、人間の中には軽蔑すべきものよりも、賛美すべきものの方が多くあるということ』
この人間らしさを自ら体現し、他者の中に輝くものをたたえ、励ましていく根本的な運動こそ『人間革命』である。
(聖教新聞:東洋哲学研究所山崎達也さん文引用)
まとめ
いかがでしたでしょうか?
2020年はコロナ1色の世界となりました。
このコロナ時代はまだまだ続くと思います。
出口が見えません。
そんな出口が見えない状況の中で、自分はどう振舞っていけばよいのか?
人は、苦しい時・つらい時、他人のことなんか構っていられなくなる生き物です。
でも逆に、自分を差し置いてでも、他者に手を差し伸べることのできる強さも心の中に秘めています。
こんな時だからこそ、自分しか救うことのできない、自分しか励ますことのできない大切な人に手を差し伸べましょう。
そして共に生きていくんだ!
と、心から思える人になっていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。